電車で偶然再会した、高校時代の友人・やっちゃん。
「まさか、こうやって話せる日がくるんだね…っ」
彼女が発したその言葉にある温度を、敏感に感じ取っていました。
「気にしてないから。私はもう…」
あの時はあなたが悪かったけど、時間も経ってるし私は許してあげるよ。
そんなニュアンス溢れる
無意識の「被害者ポジション」の言葉に…
え〜…何でそんな感じに捉えたちゃった(^q^)?と。
人が違うと、記憶も全くの別物になってしまうんだ…と痛感した覚えがあります。
高校1年時、彼女が友人から
「やっちゃんウザいからハブろう」と言われ標的にされかかった時。
私は彼女を守りたくてあえてその場に介入しました。
私なりに必死に、彼女が一人にならないように動いたつもりでした。
でも、彼女の中に積み重なっていた記憶は、私のものとは全く違う景色をしていました。
「ぷろ子のせいでうちらグループがクラスでハブられた」
「ぷろ子のせいで、自分たちは変な目で見られた」
「ぷろ子がクラスやみんなに私たちの悪口を言っている」
私のよかれとした行動と言葉は、
最後まで届かなかったな…。
事実をどう解釈するかは自由だけど。
当時は「友達じゃない」と伝え、離れることでしか自分を守れませんでしたが
再会したこの当時も、彼女との間には分厚い「壁」がそびえ立ってると感じました。
「善意」という光は必ずしも闇を照らすわけではなく、受け取り方によっては「悪意」にも「身勝手」にもなってしまうことがある。
「~つもりだった」は善意と受け取るとは限らない。
だからと言って何もしない方がいいというわけではないですが。
だからこそ、ちゃんと受け取ってもらえないことも覚悟した上で
言動であったり行動に移さないといけないなと学びにはなりました。
良かれと思ってやったことが、
なぜか相手の脳内では「全く別物」になっていること。
もう無理に自分の事をわかってくれ!
なんて思わなくていいのだと。
見方が違えば事実は全然違うものになるのだから。
自分がわかっていればそれで良いのかなと。
人が感じたことまでは変えることは出来ないんだから。
今でもたまにショックなことはありますが、
自分が自分をわかってあげられたなら、それはそれで良い。と思えるようになりました。
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ふわとろ∞ぷろ子
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